日本の交通を研究する会【記事】

youtubeチャンネル「日本の交通を研究する会」の文字起こし版です。

【大阪の陣の要所】篠山城の歴史と見どころを紹介

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 国道372号を離れ、丹波篠山市の名所:篠山城へ向かいました。

 googleアースを見れば分かると思いますが、上から見るとほぼ正方形をしているのが特徴の山城です。日本の城の象徴である天守閣は存在しておらず、再建された大書院(上の写真)がメインの建物となっています。

 

↓動画版↓

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天守台 

 篠山城天守閣はありません。焼け落ちて、再建されていないとかではありません。最初から存在しなかったのです。 

 時は17世紀初頭、関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、その覇権が決定的になった頃です。豊臣家を完全に滅ぼすため、家康は大坂を孤立させることを試みました。

 そんな中、彼が目を付けたのがこの篠山です。篠山は山陰と大坂を結ぶ要所であり、ここをおさえれば西国大名と豊臣家の連携を妨害できると考えたのです。

 豊臣滅亡を急いでいた彼は、築城を急ピッチで行わせました。

天守はいらない。天守台の周りに石の杭でも打っておけ。」

結果として戦闘に特化した要塞"篠山城"が完成したのです。

 天守台からの展望は非常に良く、丹波篠山盆地を一望できます。天守閣は要らないと言い切った理由がとてもよくわかります。

 

青山神社 

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 本丸には青山神社が鎮座しています。御祭神は篠山藩主の"青山忠俊"と"青山忠裕"。二人とも学問に力を注いだ名君です。

青山忠俊

 忠俊は「勇をもって守り育てるように」と命ぜられ、第3代将軍家光の幼少期の教育係に就きました。彼はその職務を全うし、家光は知っての通りその後200年以上続く徳川幕府の基礎を築いた名将となりました。家光は「幕府を治められたのは彼の功績が大きかった」と語っています。

青山忠裕

 忠裕は教育によって人を育てようとした人物です。篠山藩校「振徳堂」の学舎を増やし、"読み書き計算"を人々に学ばせ、更に建物に対して魔除けの儀式も行うなどをしました。

 人々に慕われていた彼は、老中を32年間も勤続し、この功績が認められ、篠山藩は1万石加増されて6万石となりました。

 

青山忠誠

 明治維新の時代の青山家当主です。彼は「篠山に人材を育てる学校が必要である」と福沢諭吉に話したところ、福沢は「素晴らしい」と評価し、福沢の弟子二人を教師として篠山に送り込みました。その後、廃藩直後に創設された教育機関"共茂舎"を"私立篠山中学"と改称し、子弟を集めて教育を開始しました。

 ところが、直後に不幸にも学舎が焼けてしまいます。その時忠誠公は「学者は焼くとも教育焼くな」と語り、私財を投じて学舎を再建しました。

 

井戸

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 本丸と二の丸には1つずつ井戸があります。両方とも深さ16メートルほど、水が枯れたことはありません。

 篠山城は、一枚岩の山の上に建てられた平山城です。その岩盤は非常に硬く、井戸を掘るのには特に苦労したそうです。百万石の大名衆4つが2つずつに分かれてそれぞれ井戸を掘っても、完成には2年の歳月がかかりました

 

二の丸

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 二の丸には上の写真の様に、書院造の部屋の名前の入ったプレートが各所に埋められています。これは、かつてこの場所に存在した"二の丸御殿"の部屋の名前です。

 御殿は、大書院と違い、間取り図しかなく、立体的に復元することの出来る資料が無かったため、現在見つかっている最も古い間取り図を参照に、1/1スケールの平面表示で再現することになりました。

 残念ながら今日の私たちは、部屋の名前を見て「ここにあったんだ」と想像することでしか御殿を見ることは出来ません。

 

大書院

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大書院のおよその間取り図

 篠山城のメイン建造物です。城のほとんどの建造物は"廃城令"によって取り壊されましたが、大書院だけは解体を免れました。しかし、昭和19年に遂に焼失してしまいました。

 時期が時期だけに、戦禍での焼失と勘違いされる方も多そうですが、本土空襲が激化したのは昭和20年に入ってからです。戦争は関係ありません。

 大書院復元に話が動き出したのは昭和59年のこと。「篠山城の建物を復元しよう」そんな声が市民から上がり始めたのです。時代は変わり、平成2年の調査で「大書院は復元可能」という結論に至り、寄付と補助金、計12億円を費やして大書院は歴史資料館として復元されました。

虎の間

 大書院に入ると、まずは"虎の間"が目に入ります。鎧兜が整然と並んだ、30畳の大広間です。

 かつては虎が描かれた襖が相手を威圧していたそうで、これが"虎の間"の云われだそうですが、現在は無地の襖があるばかりです。

手鞠の間

 現在は襖が外され、虎の間と一体になっていますが、かつては1つの部屋でした。

 隅には20インチくらいの小さなテレビが置いてあり、地元の中学生の子供たちが大書院について解説してくれるビデオが流れています。子供らしいたどたどしさがありつつも、大変分かりやすい解説です。

闇りの間

 「くらがりのま」と読みます。建物中央にある窓のない部屋です。

 名前の通り昼間でも暗く、居住には適さないため、納戸として利用されました。現在もその役割は変わっておらず、一般客は見ることができません。

源氏の間

 源氏物語をモチーフにした屏風のあった部屋です。

 現在は1/10スケールの大書院の骨組みが展示されています。復元工事の際、図面では分かりにくいところはこれを参考にしたそうです。

 

 他4つの部屋には立派な屏風や襖絵が展示されていましたが、芸術に関するセンスが欠片もない私は「絵がうまいなあ」程度の感想しか持てませんでした。

 

 

「日本の城」といえば、姫路城とか大阪城みたいな、あんな巨大な天守閣を想像しますが、篠山城はそうではなく、天守閣のない地味な城です。

 しかし、大書院は"書院造"を代表する建物で、その規模も日本有数のものです。しかも入館料は200円。篠山近辺に来たならば一度は立ち寄るべきだとは感じました。

 また青山神社に祀られている神様は教育に尽力した方々であるため、これから大事なテストが控えているとか、まもなく受験だとかいう人にもお勧めします。青山神社に参拝するだけならば無料です。